ミュージカル「No.6」

私、初めて原作ファンとして2.5次元舞台を見ました。

No.6は中学生の頃にもう本当に夢中で読んでた作品です。

わかりますか?中学生の頃に好きだったものって一生ものじゃないですか。中学生の頃の「本当に夢中」って本当に本当に本当に夢中じゃないですか。

多感なティーンエイジャーだった私はNo.6に触れて、一文一文を脳に深く刻みつけ、no6で人格形成してきました。

2.5次元舞台を見に行くことは今まで何度もあったのですが、今までは俳優を見ることが2.5次元舞台を見る目的だったので、自分が好きな作品を取り扱った2.5次元舞台を見に行くのは今回が初めてでした。

初めての体験はもう本当にマジで最高〜〜〜〜〜!!!!!だったので、小説と比較しながらミュージカル「No.6」の感想を書いて行きます。

 

小説版とミュージカルの違いについて

演劇って表現の総合格闘技だから、何を表現するのかかなり自由にオーガナイズできる表現方法だと思うんです。

今回のように歌を主軸に置くこともできるし、映画のテネットみたいに、画面(舞台)の端と端で違うことが同時進行に起こっている広角レンズのような体験を演出することも多分できるし、ストーリーとしての整合性を追い求めずに風邪ひいてる時に見る夢みたいな自分の内面世界を表すこともできると思います。アニメやCGでなんでも表現できるこの時代に、生きてる人間をわざわざ舞台の上に乗せて何を表現するのかということの答えが演出家さんによって違うと思うのですが、やっぱり私は生身の人間がやっているからこそ感じる圧が好きだな…と思います。

 

No.6の原作は挿絵がない小説なので、文章を読みながら自分の頭の中で想像しながら読み進めます。小説から読み取れる紫苑とネズミは2名ともかなり変わった人間で、人並みはずれた頭脳や優しさ、身体能力や経歴を持っていて、共感することを拒んでくるような人物像です。自分の頭の中の想像の世界に立ち現れる2人は、物理的にさわれず、文章の中にしか存在しないということも相まり、まるで霞のように矜持を預けて去って行く実体のない存在です。だってNo.6全9巻を手で持ち上げたところで、せいぜい1kgくらいの重みしかないんです。

2人を身近に感じるのではなく、自分からは遠い存在として憧れる、というのが小説のNo.6の楽しみ方であり、憧れの存在だからこそ読者に妥協を許さずに矜持を突きつけてくる強さがあります。

 

対して、舞台では物理的に立っている姿が見れるのが小説との一番の違いなんじゃないかなと思います。

そこに生身の人間が立っていることの情報量って、当たり前ですがとてつもなく多いです。姿勢、歩き方、視線の動かし方、などなど、あらゆる「実体を持っているものにしかできない方法」で、今ここに確かに存在しているんだということを印象付けてきます。

これ、マジでヤバいです。

2.5次元の他作品の感想を見るとき、原作ファンの人たちがよく「推しが目の前にいるようだった」「原作に描かれていない背景で、サブキャラがこんな動きをしていた」「コマとコマの間はこういうふうに埋められていた」みたいな感想を言います。

私は今までこれらの言葉の重みが理解できていませんでした。今回No.6を見て、初めてこれらの感想が指し示す意味がわかった気がします。それってこんなに嬉しいことだったんだ〜〜!!!!

そして、生身の人間として紫苑とネズミが目の前にいるからこそ、彼らが発するセリフが本当に現実世界に適用しなければいけない言葉だと身に染みてわかるようになります。

もともと小説の中のセリフとは、紙の中のファンタジーだからこそ、紙から言葉を持って現実に影響を与えようという試みだったはずです。紙から現実へ、というジャンプをするため、そこで使われる言葉は現実へと届きうる相応の言葉が用いられているのだと理解していました。

しかし、演劇の舞台の上では同じセリフを、現実の役者から現実の観客に対して投げかけられます。実体を持ったキャラクターから発させられる厳しいセリフたちは小説とはまた違った強度を持っています。小説の方が言葉としての純度が高く鋭い一方、舞台は生きている人間の口から発せられる泥臭さが感じられるような気がします。そのキャラクターが実際に生きていて、生き様としてそのセリフを発しているからこそ、言葉の重みがじわじわと効いてくるように思えました。

役者の生き様とキャラクターの生き様は必ずしも一致していないはずなのに、立ち姿ひとつでなんだか内面まで見えるような表現をされているのが非常に印象に残っています。原作のオタクとして見る演劇はとても新鮮で、新しい気持ちで演劇のことが好きになれた気がして、本当に本当に嬉しかったです。

 

分断を許すな!という主張

小説のNo.6は人と人との繋がりの話であり、繋がりを描くためにあえて分断された世界を描いたという主従関係があるように思います。

なので社会批判というよりはまずネズミと紫苑の関係性や矜持の話を描いた作品だったイメージがあるのですが、舞台では心情の機微、名前をつけられない美しい関係性の機微はそのままにしながら社会の分断を許すな!という主張が最後まで強く語られていたのが非常に印象的でした。

児童文学なので、この物語に描かれていることは生きる上での姿勢の話にとどまりますが、それでも今この時代にNo.6を上演するのは、やっぱり反戦という意味があると思います。

 

未熟でいい 稚拙でいい でも立ち止まるな

臆病で良い 足掻けばいい だから、世界を切り離すな

 

希望を信じるなら、まっすぐ前を向け

希望を求めるなら、傷つくことを恐れないで

希望を捨てないなら、現実受け止めろ

最後に希望を語るために、世界を理解したい

 

え〜〜〜〜!?!?!?!?この歌詞、歌、No.6すぎる…!!!!!

劇中では、この歌が繰り返し異様に歌唱力が高い俳優陣によって歌われます。小説でも舞台でも何度も伝えられてきたこのメッセージこそが、2024年の今No.6が上演される理由なのだと思いました。

 

終わりに、都知事選に出馬していたある政治家が、先日なるほどと思うようなことを言っていました。

国家のこと、政治のこと、人と人との繋がりのことはあまりにも全容が巨大すぎて、全容をつかめている人なんて誰一人いない。

全容をつかむことではなく、全容をつかもうとする姿勢こそが大事、との発言でした。

私はかなり情弱な方で、政治のこと、社会のこと、人に教えてもらわないとほんと恥ずかしいくらい何もわからないのですが

浅はかな人間でも浅はかなりに、知ることは諦めずにいなければ、と思いながら文章を結びたいと思います。

 

THE CONVOY SHOW ONE DAY〜Last Run! Run!! Run!!!〜

コンボイとは、「今ここに立っている俺たち!!」の話を一生している演劇だと思う。

自分たちの話をする演劇だから、内容は半分くらいは当てがきがされていると思うんだけど、私が今までに見たコンボイショウはきちんと役名がついていて、演劇の中で演じている役と俳優本人は区別されていた。でも、今回のコンボイショウは、役者が本人の名前の役を背負って今までの自分の人生にあったことを演じている。

 

舞台は若手役者たちによるファイティングカンパニーという劇団。ファイティングカンパニーの新作公演となる「悟空を待ちながら」に登場する妖怪の役を探すため、ファイティングカンパニーはオーディションを行う。オーディションに応募してきたのは老年の5人で、それぞれ癖つよの自己紹介をしてファイティングカンパニーの面々にドン引きされながらも、ダンスや歌を通じてファイティングカンパニーと同じパッションを持っていることから認められ、一緒に演劇を作り上げていくことになる。

「悟空を待ちながら」を作り上げていく過程で、若い劇団員に対して新しく参加した老年の俳優からのアドバイスがあったり、芽が出ない役者同士の葛藤を口に出したり、演劇を仕事にしていくのにはどうしたらいいのか?という問いがあったり、長くグループを続けていくことの難しさがについて話したり。彼ら自身の葛藤の話をしていく。

これはコンボイの実際の歴史を元にした物語のはずだから、実際にコンボイが38年間の歴史の中で直面してきたはずの問題なのだと思う。コンボイは今村ねずみさんと瀬下直人さんが2人で始めた団体で、そこからメンバーが増えたり脱退したり、若手のオーディションをして何人か若手が加入したり、グループとしての形をやわらかく変形させながら38年間続いてきた。

その38年間の中でいろいろな苦労があったはずだけど、その苦労が今回の公演ではリアルに語られている。例えば、グループを脱退しようと思ったことは何度もあった、というエピソードや、演目の面白さがわからずに打ち上げで作家と俳優が一触即発になったというエピソードなど。ほかにも、若手の10人にもそれぞれの葛藤の話が出てくる。帯金さんのオーディションの最終審査まではいくのに、最終審査で落ちてしまうことが多くて「俺いっつもこうなんだよな」と言うセリフとか、それをまっすぐに受け止めて先輩のこと尊敬しますと言う一条さんのセリフとか。そのセリフが架空のキャラクターを演じて発しているセリフならともかく、何度も言うけど今回は役者本人の役名がついた役で、観客はそれを本人の言葉として受け止める。役者本人がこのセリフを言うことに疲弊しないのか心配になるのだけど、どうやら本人たちはてらいなくこのセリフを吐いているみたいだ。稽古から本番まで、きっと同じセリフを何十回何百回と言うのだろうけど、それだけ回数を重ねても人の心を打つまっすぐさでセリフを言い続けられるのはきっと心の底からそう思っているからだと思う。きっと、そのセリフを何回も吐きつづけても嘘にならないほど己の中で強く納得させるというのが演技だということなのかもしれないと思ったし、そこまで丸裸の状態で舞台の上に立ち続けられるのはコンボイというものと結んだ信頼関係のたまものなんだろうなあと思った。

 

劇中劇となる「悟空を待ちながら」は、ゴドーを待ちながらを題材にした演劇になる。天竺を目指す旅の途中で突然いなくなってしまった悟空を、三蔵法師猪八戒沙悟浄玉龍がずっと待っているという内容だ。初めは、旅の一行を若手メンバーが演じているが、悟空を待って右往左往しているうちに、だんだんオリメンさんたちと入れ替わり、一行が悟空を待ちながら年を取る様子が描かれる。

本家のゴド待ちと同じく、登場人物たちは悟空がいつ待ち合わせにやってくるのか知らない。待ち合わせ場所が合っているのかも定かではない。でも悟空を信じて待ち続けている。一方の悟空はすでに亡くなっており、自分を待ち続ける旅の一行を空から見て、もどかしい想いを抱いている。悟空を待つのをやめて、自分の足で歩いていけば、思いもよらない場所まで行けるかもしれないのに。一行に悟空を置いて進んで行くように促したいけど、すでに亡くなってしまった悟空からの声は届かない。そういうストーリーだった。

今回の台詞の中には何回か「待つ」という言葉が出てくるのだけど、待つこと、そして、待つことをやめて勝手に自分の道を進んでいくことがコンボイの歴史を振り返った時に一つの軸になっているらしい。まだねずみさんやジュリさんが若かったころ、仕事をずっと待っていたけど、いつまでたっても仕事がこなかったから待つことをやめて自分達でコンボイを始めてみた、という経緯があるようなので、悟空を待ちながらで語られている内容は、コンボイが始まったころの姿を描いているんじゃ無いかと思う。

公演が進んで行くと、実はファイティングカンパニーで上映している「悟空を待ちながら」は盗作で、本当は何十年も前にねずみさん演じる「ねずみ」さんが書き上げて上演したものを盗んだものだったことが明かされる。でも良輔さん演じる「良輔」さんは過去の悟空を待ちながらに感銘を受けて、どうしても過去に見た悟空を待ちながらを越えたくて、盗作でもなんでも構わないからやるべきだと思って脚本を書いた。

ここで描かれている、若者が老年を追いかける構図もコンボイを表していると思う。コンボイに去年から参加している川原さん、塩田さんがコンボイを見て、自分たちの場所を作りたいと思って今年KRISTという会社を立ち上げた。別にKRISTがコンボイのようになっていくかはわからないし、全然コンボイのようになっていかなくても良いと思うけど、今回の演目の中では「自分達の居場所を自分達で作った」という共通項で結ばれて、KRIST=コンボイの志を継ぐ者、みたいな扱いになっている。やっぱり年長者の背中を見て後に続く者がいるというのはねずみさんにとってすごく嬉しいことだったんじゃないかと思う。オリメンさんたちが若かった頃の姿を描いた「悟空を待ちながら」を若者が再演するのは(それも「過去に上演されたものを超えたかったんだ」と言いながら再演するのは!)オリメンさんたちが始めたコンボイというものを若者にも継承していきたかったということを表しているのかなと思った。過去にオリメンさんがやった演目を若者もやる、というストーリーを若者にセリフとして発させるという構図は、ともすれば説教くさくもなりがちな内容なのだけど、オリメンさんたちが弱さを見せた上で話をしているからそこにいやらしさは全く感じない。若者がオリメンを超えてほしいという願いでもあるし、事実そうなるだろうという予見なのかもしれないし…。ただただ力強く背中を押したいと思ってそのセリフを発しているんだということがすごく伝わる。コンボイって…人生?

 

オーディション、稽古、盗作疑惑、いろんなことを乗り越えて、ファイティングカンパニーはゲネプロを迎え、さあ行くか!と鬨の声をあげるところで演劇パートが終わり、ショーパートが始まる。

なんか、前も別エントリで書いたけどこの演劇パートとショーパートの温度差がほんとえぐいんですよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

コンボイ全体の流れとして、冒頭でナンセンスギャグを連発しながら場を温めつつセリフの中に大事なキーワードを散りばめて導入にして、中盤〜終盤にかけてどんどん散らかっていた物語が結実していく構成をしているのですけど、終盤にむけて観客側のアンテナもどんどん鋭敏になっていくから、鋭敏さがピークに達したタイミングで脳に直接響く音楽とダンスで畳み掛けられたらもう沸騰するしかないんですが………。演劇パートの最後の曲で終わりを予感してべしょべしょに泣いてんのにその情緒のままショーパートを叩きつけられるの、死にそうになってしまう。コンボイって全員パフォーマンスがかっこよすぎて魅力の洪水!畳み掛ける暴力!にボコボコにやられてしまって演劇パートで悲しかったのを引きずってんのかショーパートに喜んでんのかよくわからん涙をびちょびちょに流しながら意味わかんない情緒でショーパート見てしまう。あのショーパートの中にはこの世の全部の感情が詰まってる。私は5回見に行ったんだけど、結局5回中5回とも意味わかんないくらい泣いてしまって私の夏は終わった。

 

全体を通じて、私がまだ知らない感情について話していた。今までコンボイにどんなことがあったのか、なんとなく知ってはいるし演劇で語られている内容も理解はするけれども、語られていることは私が体感したこともない(しかも今後体感しないかもしれない)ことばかりだった。

40年前に立ち上げた自分の作品に、自分で幕を下ろそうと決めるのってどんな気持ち?自分が始めた作品に若手が入ってきて、コンボイの志を継承していくのってどんな気持ち?自分達は立ち去るのに、後に続く若手の背中を押すのってどんな気持ち?稽古から本番まで、毎回毎回「振り返ると、ありがとうという言葉しか出てこない」っていう台詞を言い続けるのってどんな気持ち?

今回の公演は本当に印象的な台詞がいくつもあって、例えばタテ様の「生き方じゃなくて、在り方なの」という台詞。私は非常に頑固な人間なので、物事が上手くいかない時、自分のやり方を曲げることが嫌だと思ってしまう。よく、他人のことは変えられないから自分を変えましょうって言葉聞くじゃないですか。私あれすごくネガティブな諦めのように思えてしまって、かなり受け入れ難い言葉なんですけど、年を重ねるにつれてそんな態度じゃ通用しないなあと思うことが増えてきている。自分がやることは選べないかもしれない。でも置かれた環境の中で、自分がどんな態度でいるかは人間に与えられた最後の自由だという言葉もある。生き方は選べないけど、在り方は選べる。こんな、途方もなく切実な台詞が出てくることで、まだ語られていないコンボイの歴史、今までどんなことがあったのか、漠然と背後にあるものを想像できてしまう。失礼な言い方かもしれないけど、本当に年齢を重ねているからこそ言える台詞だと思う。

ほかにも、公演のテーマの一つに「待つ」があったこともやっぱり年を重ねないと出てこない言葉だと思っている。私はコンボイはずっと走り続けてきたものだと思っていたのだけど、本人達の認識として「待つ」だったのが興味深い。そんな発想に至るまでどんな気持ちで何を諦めて何を選んできたのか、何にもわからない。何にもわからないけど、背負ってきた人生みたいなものを感じて、その人生がデカすぎて怖い。自分でコンボイの幕を下ろすことを決めて、その終わりが来る日に「この日が来るのをずっと待っていたのかもしれない」っていうセリフを言うのってどんな気持ち?

 

公演が全部で17回あるので、台詞も本番だけでも17回は言わないといけないし、稽古期間を含めたら何十回と台詞を吐いているはずで、何回言っても色褪せないくらい本質をついた強い言葉を台詞にしないと、この公演をあの熱量で最後まで続けられないのではないでしょうか。 この熱量で17公演最後まで走り続けるためには、劇中のありがとうの言葉も、背中を押したい気持ちも、内面から強く発されている言葉である必要があると思うし、その言葉の強さ、人生というものへの正直さがコンボイの魅力なんだな〜と改めて思いました。

 

コンボイショウって本当に終わらないとダメですか?世の中には嫌な年輩者がいつまでも自分の席に固執してどかないこともたくさんあるのに、なんで良いおじさん達ばかりが早くいなくなってしまうんですか?コンボイみたいな最高のエンタメショウがいつまでもこの世界に生き続けることを私は本当に願ってます。来年も祭があるというのはわかっているのですが、私また本公演が見た〜〜〜〜〜〜〜〜〜い……。

またコンボイショウが見たいと言い続けていればそれが現実になることを祈ってます。

以上、復活祈願エントリでした!

二人芝居 追想曲 カノン 感想

カノン、情報量が膨大だった~~~というのがまず私の感想です。

まず舞台はBGMもセリフもない無音のマイムから始まって、見ている私たちもヨハンの指先に神経全集中。そして集中していたら音がどんどん重なって音楽が鳴り始めて、曲が盛り上がったところで一つ目のシーンに入っていく。

短い導入だけどこちら側はびっくりするんですよ。だって音無しのマイムでじ~~っくり芝居に浸らせてもらえることなんて今までそんなに無かったじゃないですか。そこでああ、この芝居は今までとはちょっと違うぞ、と理解する。細かい動きも見逃さないようにしよう。無音の時間こそ何か大切なことが語られるのかもしれない。そういう意識を持ってここから先の芝居を見ようと思わせられる導入です。

そして、本編に入っていく。舞台は人間とロボットとの戦争が続いている終末世界で、ロボットからの攻撃の対象となるエリアである「外」と人間が暮らしている地域である「中」の2項対立となった世界が描かれている。そしてその、戦争が続く地域で、音楽をキーワードにしながらその世界に生きる人の3つの物語が繋がっていく。

一つ目の場面は、レストランのシーン。ウェイターの男と客の男の2名の掛け合いなのだけど、話を追っていくうちにだんだんと世界が戦争中であること、戦争の終わらせ方が誰にもわからなくなってしまったこと、このレストランにはウェイターの男以外誰も働いておらず、過去にあった敵対勢力からの攻撃で、ウェイターの1名以外の従業員が全員亡くなっており、ウェイターは一人で店を守るために働き続けていることなどが明かされていく。客も恋人を爆撃で亡くしていて、その当時の記憶を無くしてしまったまま、恋人と訪れる約束をしていたレストランに訪れて、ウェイターと二人で会話を繰り広げながら少しずつ記憶を取り戻していく。

二つ目の舞台は、レストランと同じ町にあるヤクザの事務所。ヤクザの兄貴分が弟分に対して「集金して来い!」と怒鳴っているが、町はすでに敵対勢力からの攻撃地域に入っており、集金すべき人はもう全員防空壕に逃げてしまっている。兄貴分もそんなことはわかっているけど、兄貴分っぽく横柄に振る舞うことをやめない。そんな極限の中で、兄貴分と弟分がお互いにずっと隠していたことを少しずつ話す。

三つ目の舞台は、ロボット・アルトと音楽家・ヨハンの対話のシーン。音楽が持つ、人の心を動かす力に興味を持ったロボット勢力は、アルトをヨハンの元に送ってヨハンを保護しようとするが、ヨハンはいままで同胞を殺してきた敵対勢力であるアルトを拒絶する。歩み寄ろうとするアルトと、ロボットのことが信用できないヨハン。アルトの命をかけた歩み寄りを通じて、だんだんヨハンがアルトと感情を共有するようになる話だ。

全編を通じて、状況説明はほとんどなく、その状況に置かれた登場人物たちの日常的な会話で物語が展開されていく。会話の端々から状況を想像していくことになるから、普段見ている演劇よりもいっそう注意深く見ることができる。そして、注意深く見ることによって物語の細かい機微がより感じ取れるようになる。

この舞台の中にわかりやすく派手な演出はほとんどないし話がつらつらと進んでいくから、もしかしてこの脚本を見応えのあるものにするのはめちゃくちゃ難しいのではないだろうか!?見応えあるものにするために、本田さんと赤澤さんが細か~い機微を丁寧~~に芝居に落としてくれてるのがとても伝わる。

先日、「宇宙よりも遠い場所」というアニメを見て、万人が共通認識として思い浮かべる「悲しい出来事」ではなくて、ごくごく個人的な一見わかりくい状況で悲しみを表すと、人はもっと共感できてもっと悲しくなってしまうという心の動きがあるんだなあと学習したのだけど(宇宙よりも遠い場所のラストもそんな感じで、ありえんくらい泣いてしまった)、カノンも同じく、登場人物たちの個人的な状況を通じて感情が伝えられるからこそより感動した。

普通、顔を見合わせて「ロマンチックー!」って言っている絵面だけがぱっと出されても泣かないし、立場が上の人間が弟分にオラついてる姿を見て泣いたりしない。この状況に置かれた人間たちがどうにか自分たちで状況に適応するための努力をした結果、あえて普段通りに振る舞うことを選択しているということなんじゃないかと想像してしまって、普通のことを喋っているシーンなのにめちゃくちゃ感動してしまう。一個すごく印象に残っていることは言葉遣いで、登場人物たちは終末世界になっても言葉遣い(敬語)や立場による態度を崩そうとしない。それは彼らが極限状態に置かれてもなるべく変わらない日常を生きたいと思っているからなんじゃないかと想像してしまって、ヨハンとアルトが賢明に日常を保たせようとしているように見えてめちゃくちゃに泣ける………

 

そして、役を入れ替えるということについて。

もともと役を入れ替えようと提案されたのはプロデューサーの方で、それを聞いた本田さんがそれいいね!と乗り、赤澤さんは冷静に悩みながら結果的にダブルキャストを受け入れたという話だったと記憶している。パンフレットやインタビューを読んでも、役を入れ替えるダブルキャストというのは演者にとってとてつもない負荷がかかる仕事だということが至る所で書かれており、本当に大変だったんだろうな。と思う。けど、実際観客としてはめっっちゃくちゃ面白い演劇でした。

そもそも座組みからして、本田さんと赤澤さんがお互いに持てるものを全部出し切る演劇だと思う。観客もそれを味わいに行っていると思うけど、それに加えて登場人物が2人しかいないから1人1人の芝居に目が行きやすい。更に更に、役が公演ごとに入れ替わるから2人の芝居を比べることで2人の芝居の工夫がわかりやすいし、なんならセリフのイントネーション、体の動き、間、いろんな要素をそれぞれの芝居から比較して味わうことができる。その細かさの味わい方ってもはや歌舞伎とか落語とかの伝統芸能の領域なのではないだろうか。

キャリアが長い2人だから、別の舞台だと他の出演者のキャリーみたいな役割もすることもあると思うのだけど、この舞台に関しては何も気を使わずに、彼らができる最大限のことを惜しみなく出しているように見えた。

エーステの夏単で一成と三角が屋根の上で「昨日は星が見えなかったけど、今日は見えるかもしれない」「今日は描けなかったけど、明日は描けるかもしれない」「だから、大丈夫だよ」っていう会話をするシーン、回を追うごとに間が長くなっていって、芝居もどんどん変わっていって、あまりにも丁寧な芝居をされることにとても驚いていたのだけど、カノンはエーステのその掛け合いをより長く深く突き詰めたような丁寧な丁寧な舞台だった。

ふと気になったのだけど、もし今まで本田さんの芝居も赤澤さんの芝居も見たことがない人がこれを見たらどう思うのだろうか。

今回の芝居の中には、私たちが2人の人格を知ってるからこそ感じ取れるものが色々あるんじゃないかと思った。本田礼生と赤澤燈の今までの芝居を多少なりとも知ってるからこそ、今までと違うアプローチをしているとかどんなことを試みようとしているのかとかが多少なりともわかるじゃないですか。あ、今までに見たことないことやってるなとか。そうやって、彼らが考えていることの片鱗が少しでも観客に伝わることを全部考慮に入れた上で2人が他の場所(=自分たちを知らない人がいる可能性がある場所)ではやらない芝居をやっていた可能性もあるんじゃないか!?そこまでアクセルを踏んでいたんじゃないか!?と勝手に想像してしまい、もし初見の人がいたらすごくすごく感想が気になるなと思っています。

 

ただ、面白かった一方でこの演劇を作るにあたっての苦労もいろいろなところで取り上げられていた。

今回の演劇は2人は楽しんでやっていたみたいだけど、覚悟なく取り組んだらめちゃくちゃな苦行だったのではないだろうか。2人は楽しんでできる素質をお持ちの素晴らしい役者さんたちだけど、普通の話として人間は無理をすると壊れる。そんな苦労と楽しさが高い位置でバランスを保っている大変な状況の演劇に携わっていたのが松崎さんという演出家だったことも、観客目線で最高に良い環境だったな~と思います。

昔、本当に少しだけ演劇をかじっていたことがあり、その時の経験とか自分の周りで演劇をやっている友達の話を聞くに、役者に心理的肉体的ストレスをかけることがスタートラインだと思っている演劇関係者の方もいらっしゃるのではないかと想像している。正直言って私は演劇業界の倫理観のことをあまり信用していない。そんな中、松崎さんが「演出家が俳優を意図的に苦しめる現場がいいとは思わない」と明言してくれた上でこのダブルキャストという負荷を担ってくれているのが本当にオタク目線として信頼できる環境だなあと思っています。(何様だよって感じだけど

しかもしかも、ダブルキャストであることは演出的に面白かっただけじゃなくて、興行的にもすごく良い方に作用した仕掛けなんじゃないかと思いました。

まず、興行的にもダブルにした方が収入が上がる(だってほとんどのお客さんが最低2公演は行くということだもん)し、話題性もあってニュースになりやすいですよね。私は基本的に面白くお金を儲けてくれるならどんどんやってくれ!!と思うタイプのオタクなので、今回のダブルキャストをプロデューサーさんが提案されたということも含めて面白い座組みだなと思いました。それに、プロデューサーの方がどこまでの意図を持っていたかはわからないけど、結果的に観客が本田さんと赤澤さんの芝居に対して深く考察できるとっても素晴らしい仕掛けになったと思う。

 

そして、音楽について。

これは、製作陣のみなさまも繰り返し発信している通り、祈りの話である。

祈りとは、きっと芸術の力を信じるという祈りでもあるし、人は人に影響を与えることができるという祈りでもあるし、立場が違う人や対立している人でもわかり合うことができるという祈りでもある。音楽が人を少しだけ勇気づけて、人々の勇気が縁を繋いでいく話だ。音楽がアルトとヨハンを勇気づけ、最後には勇気の連鎖が作曲家自身に帰ってくる。

現実には音楽が直接的に戦争を止めることはない。でも、この話で描かれていた通り、人が歩み寄る時の最初の一歩になりうるのが芸術なのではないか。

2020年から今に至るまで、多分演劇やその他のエンタメ業界の苦しい時期は続いている。コロナの時期からなぜかエッセンシャルワーク以外の仕事を軽視する風潮が生まれ始めて、エンタメが槍玉に挙げられることも何度かあったのだけど、個人的に印象に残ったのは「芸術は生きるのに最低限必要なことではない」「芸術を自粛するべきでは」という意見や、「そもそも経済活動に芸術なんて本当に必要なのか」「自分は芸術に救われたことは一度もない」という意見だった(「一度もない」はさすがに少数派の意見だろうけど)。コロナがはじまってからの数年間はエンタメ、特に現地に行かないと体験できないエンタメにとっては経済的にも精神的にも苦しい期間だったと思う。

エンタメ業界はいろんな種類のダメージをたくさん受けた。そのうちの経済面では今まさに回復している途中だと思う、けど、精神的に、極限状態に陥った時に、エンタメは必要ないものだと言われてしまうのか?という問いは解決されていないままだと思う。

私たちみたいな演劇を常日頃から見に行く人にとって、辛い時こそエンタメが必要なのは当たり前すぎることだけど、結局エンタメの価値を信じられない人たちに関しては、特に根本的な解決がないままコロナ終焉とともにぬるっと状況が改善してしまったと思う。エンタメをやっている人とエンタメを見に行く人がかなりの不自由を強いられた経験からまだ解決策を探せていない。そんな2024年にこんな演劇が生まれてきたことはとても意義深いことだと思う。

そもそも2020年は全員すごく弱気になっていて、人と会うと人が死ぬかもしれない、という状況に対して当たり前だけど「生命に直接関わること以外は自粛すべき」という言葉のもと、多くの人たちが普段の生活を中断していた。あの時期に自粛しなきゃいけなかったのは本当に正しいことで当たり前なんだけど、必要以上に人と人の分断が起こっていたし、世界中の人たちがふさぎこんでいた時期だった。

2020年の当時私が感じていた気持ちは、生命が脅かされている時代に対する恐怖だったり、医療従事者に対する感謝だったり、なんもできない状況に対するもどかしさだったり。私もべつに医療とかインフラ関係の仕事をしているわけではないので外出自粛期間は仕事が本当になくて、労働することさえできなかった。

でも、そんな外出自粛期間が終わり、みんながこわごわ外に出始めた2020年の夏、久しぶりに外に出て真夏の新宿のあまりの暑さにクラクラしながらスペースゼロに向かって席に座り、オープニングのLOVE PHANTOMを見た時、久しぶりに手足に血が通ったような気持ちになった。みんなそうだと思うけど久しぶりに生きていることに感謝したし、人間らしい感情取り戻せた!と思ったんだよね。本当に今更言うまでもなく当たり前のことだけど、苦しい時こそ人間には楽しいことが必要だ。

なんだかこの作品で伝えられている「芸術の力を信じる」というメッセージは、あの狂った2020年に対するアンサーのように感じたし、もっというと未だに狂い続けている世界に対する祈りでもあると思う。

私はたまたま最近反戦をテーマにした作品を見ることが多かった。カノンが反戦をテーマにしたかったのかはわからないし、もしかしたら全然意図していないかもしれないけど、カノンを見ると強く戦争はだめだ、という気持ちになる。

それは、カノンの物語の中で、ロボットと人間の戦争についてあまり細かくは触れられていないからこそ解釈を広げて自分が生きている世界で実際に起こっている戦争にも当てはめてイメージすることができるからだし、戦争そのものじゃなくて戦争によって脅かされる日常の方を描いているからかもしれない。レストランで客と恋人が「すごくおいしい」と言うシーン、ヤクザの2人が乾杯するシーン、ヨハンとアルトが一緒にピアノを弾くシーン。話しているセリフもやっている動作も本当にありふれた普通のことなのに、そこに至るまでの描き方も芝居もあまりにも丁寧で、自分が暮らしている日常よりもリアルに、日常というものの大切さが身にしみてわかる。

 

あと、私は音楽が好きで、最近転職して音楽業界のはじっこのほ~~~~で働き始めたので、カノンの中で取り上げられているものが音楽であることがかなり嬉しかった。

音楽って基本的に一個も合理的な創作物じゃないと思うんですよ。なんで言葉の途中に「yeah」とか言っちゃうのか。よくわかんないけどそれで人間の感覚みたいな部分に働きかけて、人の気持ちを変えちゃったりする。

音楽も演劇もたった5分でマジで人生が変わることってあるよねと思うし、発された一言のセリフ、一個の音をいつまでも覚えていてそれが生きる時の道しるべになったりする。

すごく余談なのだけど、私は演劇を見て感動した時にこうやって文章を書くことがあるんだけど、音楽を聴いたりライブに行った時に感動しても文章を書くことはない。それは論理とは全然違う部分で音楽を味わってるからだし、自分が感じたことを文章にしても全く人と共有できないものになるんじゃないかと思うからだ。

伝わらないだろうな、と思いながら試しに書いてみるけど、私にとって音楽とは人間が作るものじゃなくて、人間が自然界から借りてくるものだとイメージしている。例えば人間が川の水を利用してダムを作るみたいに、源泉となる音楽は自然界に存在していて、人間ができることはその音楽の源みたいなでかい概念にアクセスして、源泉を組み上げて加工して世の中に広げているだけなんじゃないかと思うことがある。

ちょっとスピリチュアルが行き過ぎてる想像だけど、そう思うくらい音楽って不思議で第六感で感じる部分が多いものだと思う。さっきも書いた通り、音楽って(音楽理論的なものはあれど)理性でわかること全然ないのに、心が熱くなったり悲しくなったりする。理性で受け取れるものと感受性で受け取れるものが全然違う。なんで音が等間隔で鳴っているとリズムだと感じるのかとか、なんでこのコード進行だと気持ちいいのかとか、音の並びに正解や不正解があるのかとか、特定の音が組み合わさるとハーモニーになったり不協和音になったりするのかとか。なんで人間がそこに音楽を感じるのか、普通に考えて一個もわかんない。音楽理論として実証されてはいるけど、それは起こっている現象を対症療法的に解明しているだけなのではないか。

何が言いたかったかというと、音楽って超常的な力で一足飛びに気持ちを伝えることができるツールだと思うんですよ。論理が届かない場所に感情とか第六感とかで到達することができる。そういう力を持つ音楽が、カノンという祈りの物語のテーマとして選ばれたことにすごく共感できるし良いテーマだったなと思います。

 

最後に、めちゃくちゃ面白い演劇を見れて本当に楽しかったです!今回の芝居はエモーショナルな楽しみ方もできるし、本当に細かく練られた芝居を左脳的に楽しむこともできる。泣いてもいいし泣かなくてもいい。芝居を楽しんでもいいし、演出や脚本を楽しんでもいい。どこをとっても味わい深いし、それぞれの要素が強く結びついているから脚本を味わっている間に芝居や演出の良さにだんだん気づいていくような楽しみ方もできる。何度も見にいくような消費の仕方をしていたとしても、何度も見に行った分だけ色々な発見がある味わい深い舞台だと思いました。

またこの座組みでやってくれるといいな!!以上、感想エントリでした!

THE CONVOY SHOW コンボ・イ・ランド再演

コンボ・イ・ランドの初演で色んなものを受け取ったはずなのに、再演は初演よりも更にたくさんの物を受け取れる公演だった。コンボ・イ・ランド再演のどこがすごかったのか、考えたことを書いてみる。

 

コンボ・イ・ランドは演劇パートとショーパートで構成されていて、およそ前半2時間くらいが演劇パート、後半1時間くらいがショーパートだったのではないだろうか。いずれにせよ役者たちは大半の時間を舞台の上で過ごしていて、ハケたり休憩をする時間があまり長くない中、バチバチに演技をして、バチバチに踊る濃密な幕間なしの3時間を過ごす。3時間の間ノンストップでコンボイショウを見せられ続けていて、まさに流れ星の残像のようにキラキラは目に焼き付いているけれども、まぶしすぎて、正直細かい部分は全く思い出せない(!!!)。思い出せないけれども、断片的に何が良かったか、どこがキラキラして見えたかの思い出は残っていて、なんかよくわからないけどわ~っと泣いてしまった記憶も残っていて、自分は何にそんなに感動していたのだろうか。

 

コンボ・イ・ランド再演はランド初演と同じく、若手がコンボイに入ってからの演目がオムニバス形式で走馬灯のように流れることで構成されている。過去の演目同士はそれぞれ強固なつながりがある訳ではなく、かといって完全に独立している訳でもなく、まさにおもちゃ箱をひっくり返したように、それぞれの演目の象徴的なシーンが断片的に上演される。断片だからと言って読後感がばらけるわけではなく、根底に37年間を慈しみ、懐かしむ想いがあるから、ランドを見終える頃には、過ごしてきた日々の輝きが知れて、コンボイをもっと好きになっている。ATOMの、サルトルの登場シーンやajapanのトゥクトゥク運転手との会話のシーン、ポ~の地球を勇気づけるシーン、星屑のオジサンたちと若者たちの志が同じだとわかるシーン、one!の全員が一つになるシーンなど、思い出深いシーンが出てくる度に自分がその演目を見に行った時の服装とか空気感、期待感、見終わった後の冷めやらぬドキドキなど、色んなことを思い出してオジサンたちと一緒に過去を振り返っているような気持になる。(ajapanだけ見てないのでそこは想像で補完する!!)

私は若手をきっかけとしてコンボイを見始めた人間だから、いつまでもコンボイのオリメンに対して外様のスタンスで接していた部分がある。コンボイのことは大好きだけど、文脈や個々の人間性が重視されるコンボイなのに、今までの文脈で知らないことがいっぱいある。それがある種引け目になっていた。けど、今回のランドは素直に37年間の歴史の重みを受け取ることができたと思う。

今回のランドで私が一番印象に残ったのは、若手メンバーの存在感がすごく増したように思えたこと。そして、若手の存在感が増すほど、より一層オジサンたちの厚みを感じるようになったこと。前回のランドの時自分が書いた文章を見返していたら、どうやら当時は本田さんと壮太郎さんが若手番長を張っていることが新鮮だったみたいだけど、今回は他の若手メンバーたちが今までよりももっともっと自分を出していたことが印象に残っている。今回は新メンバーが入ったり、前回ランドに出ていなかった人が増えたことによって、役のセリフやシーンがその人に合わせて書き換えられ、内容がかなり変わっている。コンボイは役者の人間性に真摯に向き合って作品作りをしていらっしゃるから、前回ランドにいなかった人がその場にいることに全く違和感がなく、むしろ人数が増えたことによってパワーアップしているように見える。今回のランドでは、初演と比較して変更された部分がわかることで、新しく入ってきた3名も含め、参加メンバーのその人らしい魅力が今までよりもたくさん見えた。

そして、同時に若手が強くなればなるほど、オジサンたちのすごさが際立つ。バチバチに身体の限界を突き詰める姿に心を打たれる。限界まで体を酷使することは役者の労働環境を整える上であまり歓迎されることではない、という風潮もあるが、なぜかコンボイの出演者たちはそのきつい行為を「楽しい」と言って突き詰めていく。限界を迎えようとしていることと、彼らがその状況を楽しんでいるであろうことの高度なバランスによって泥臭くても勇気をもらえる舞台が出来上がる。強くなった若手も、更に上を行く存在感を発揮するオジサンたちも、等しくみな泥臭い姿でいる。コンボイの魅力とはなんなのか、という疑問に立ち返った時に、前回のランドを見た時は一人一人が持つ生命のパワーだと結論付けたけど、今回のランドを見て更にもっと深い魅力があるんだということに気づいた。個の生命力の強さだけではなくて、各々が個を磨いて行った結果、全体も良くなるという奇跡的な循環が生まれている。そして、最後には結局全員横並びで一つになって立つ。個々の強さがわかるからこそ、全員で横に並んだ時の一体感がすごすぎる。個の強さだけではなく、ワンラインになった時の全体の強さは何回見ても、どの演目でも、変わらず感動できる部分で、これがあるから自分はコンボイが好きなのだなあと思う。

コンボイは演目の中で何回もワンラインになる。演じたり、踊ったりするところを見ながらどんどん自分の中での個々の人間性に対する解像度は上がっていくので、ワンラインになる度にスゲーーー!!!と思う気持ちはどんどん強くなっていく。おびび(帯金さん)が、今まではオリメンの中に溶け込むことに必死だったけど、今回はもう少し個を出していきたい、というようなことをパンフレットで話していたけれども、今までもしっかり存在感を出していた所が、今回はさらに強く、個人としての存在感を見せてもらったような気がした。帯金さんのみならず他の若手メンバーや新しく入ってきた3名が個々の魅力を携えて舞台上にいてくれていて、オリメンさんたちも呼応して更に存在感を上げていて、ワンラインの強さにやられて改めてとても感動してしまった。

 

あとは、勝手に私が抱いてしまった感想の話をさせてほしい。私の86歳になるじいちゃんが最近がんを発症して病院と老人ホームを行ったり来たりしながら生活するようになった。もともと20代の私よりも体が強く、全然体調を崩さないタイプで、なおかつ毎日10キロのウォーキングをしていて、ご飯をよく食べ、よく眠り、ピンピンしていたじいさんだった。だけどついに年齢に逆らえない時期が来たらしい。オリメンのオジサンたちを見ながら、オリメンさんに失礼だなとは思いつつも、そのじいさんのことを思い出してしまった。

50代、60代の出演者たちは若手に比べると身体能力は衰えているし、普通にしている時は見た目も老けているなあという印象を受ける。でも、舞台の上に立っている時はぐうの音も出ないほどかっこいい。

10代から60代まで並んでると思うと、その年代の前と後ろにある生まれてくること、死んでいくことを連想せずにはいられない。コンボイでは、10代から60代までみんな等しく生き生きとした顔で舞台の上で生きているから、もしかしたら、生まれてきたばかりの人も、もうすぐ死んでいく人もきっとその延長線上で楽しく生きているのではないかという想像をさせてもらえる。60代になっても、「まだ終わっちゃいない。お楽しみはこれからだ。って、ガラクタが言ってるよ」みたいなセリフを言ってくれる人がいることが、自分の人生にとって希望になる。おれのじいちゃんが人生が一番楽しかった時は50代になって、自分の子どもたち(要は私の親やその弟妹たち)がそれぞれ就職したり結婚して実家を出て行ったあと、妻であるおばあちゃんと2人で過ごしていた頃だという話をしてくれたことがある。我々、若い方が価値があるとされている世界に生きてしまっているけれども、実際はどうやら年取ってからの方が楽しいという人生も世の中には存在するらしい。コンボイの中であれだけ年とってる人達が生き生きしているのだから、自分のじいちゃんも死ぬ直前までまだまだ楽しいことが待っている可能性があるのかもしれない。コンボイが伝えたかったこととは全く違うかもしれないけど、その一縷の希望をポジティブに信じてみようかなという気持ちにさせてくれるパワーを持った演劇だと思った。

 

私はランドから勝手に色々受け取ったつもりでいるけど、明確な答えを提示せず、コンボイという団体の良さの解釈はある程度観客側に委ねられている演目だと思う。コンボイを長く見ている人、今回初めてコンボイ見たよという人、色んな人にそれぞれの答えがあるはずの演目だから、いろんな着眼点での感想を見てみたい。私は年代がばらけていることに注目してコンボイの感想を書きがちだけど、彼らが若かった時代は全く別の魅力があったはずで、それを踏まえてランドを見たらどんな感想になるのかすごく気になる。

いずれにせよ追い続けるほどにコンボイの魅力がわかってきて、これから先もコンボイを見て、どんどん魅力に気付けるのかと思うと今後の演目を見るのがとても楽しみ。コンボイはいつか終わる、と大社長がたまにツイートしているけど、終わる日はまだまだ先でも良いのではないでしょうか!?!?今後も既存作品の再演も、新作公演もたくさんのコンボイが見られることを楽しみにしています!!!!

(柔)翔けゆくあの子 仰ぎ見て 紡ぎ。

1月18日に行われた伊藤壮太郎さんによる自主公演「(柔)翔けゆくあの子 仰ぎ見て 紡ぎ。」の感想エントリです。ギターの生演奏に合わせて壮太郎さんが即興で踊る公演でした。壮太郎何を表現していたのかを考えたくて文章を書いています。

どんな空間だったか

この公演の中では、いくつかの場面に分かれて即興のパフォーマンスが展開されていく。各場面ごとに音楽と照明が変わり、雰囲気をガラッと変えながら進行していく。最初の場面では、しんとした空気の中で壮太郎さんが「餅」「足(すそ)長い」「暑くね?」など、その時感じたことをぽんぽんとリズムのように発声しながら踊ったり、ゴジラのマネなどをしながら歩き回る。ちょっと笑いも起こる。でも、壮太郎さんが踊っているうちにだんだん声が大きくなってきて、動作が大きくなってきて、だんだん雰囲気が深刻になっていく。場面が変わるごとに苦悩を描いているような重苦しい雰囲気になったり、ふっと緊張が緩んで日常を描いているような雰囲気になったり、「おいで」と犬を呼ぶシーンになったり、激しく悲嘆にくれるシーン、また日常に戻っていくシーンと展開していく。昨年9月に壮太郎さんは実家の犬が危篤で帰省されていたのだけど、多分その時のことを公演にして見せてくれたんだと思う。壮太郎さんが生きてきた中で何があったのかを口ではなく体で喋っているような公演だった。体で喋りながら、その時何が起こっていたのか、壮太郎さんに何が見えているのかを共有してくれた。

なぜ犬が亡くなったというごく個人的なことを他人に対して表象してくれるのかよくわからない。私だったら個人的なことをパブリックに対して発信するには何かを隠したり、表現の壁をもっと多重に被せると思う。一つ一つのシーンで壮太郎さんが即興で踊る様子は、日々感じてることをストレートにそのまま表現してくれたようでとても戸惑った。それを表現してくれるのはありがたいけど、きっとその表象には痛みを伴うのではないだろうか。そうまでして見せてくれたことの意味が、弔いなのか、自分の感情の昇華なのか(これは弔いと同義である)、観客に対しての責任なのか、ただ喋りたかったのか。それを考えることが壮太郎さんが何のために踊っているのかを考える上で糸口になることだと思う。

 

伊藤壮太郎の身体表現について

去年の7月くらいから11月末まで壮太郎さんがワークショップをやっていた。壮太郎さんはワークショップをやっていた時から、「そんなに開示して頂いて大丈夫ですか!?」と問いたくなるほど自分のことを言葉で、ダンスで伝えてくれがちだった。ワークショップの中でいつも壮太郎さんがソロで踊って体で喋ってくれるコーナーがあるんだけど、今回の公演はワークショップの中のコーナーよりもずっと喋っている内容が伝わってきた。

そもそも、ワークショップの内容も「どうしたら体を使ってコミュニケーションを取れるか」の文法を教えてくれるようなワークショップが多かった。いつもワークショップの前半で、自分の気持ちのままに体を動かすためのコツを教えてくれる。(空間の中で居心地が良い場所を探してみると良いとか、体の一部を最大限使ってみると良いとか。)そして後半はいつもコミュニケーションの時間で、参加者同士で一対一になって体の動きでコミュニケーションを取り合ってみる。体の動きを会話に例えると、壮太郎さんの動きは流暢な文章みたいで、一個一個の動作が次の動作への伏線になっていたり、黙っている時間も楽しめたり、陽キャにも隠キャにも合わせられる本当の意味でコミュ力が高い人という感じがした。伊藤壮太郎は、体を使って長い長い文章を喋っている。

いつかのワークショップの時に壮太郎さんが言いたいことを考える時間が多い日があった。伝え方を探しながら「なぜダンスを踊ることが健康に良いのか」「言葉にできないことを伝える」みたいなことをぽろぽろと話していて、それがとても印象に残った。第1回のワークショップの時から壮太郎さんはいつも言葉によるコミュニケーションも大事にしてくれていて、特に言葉に不自由している印象は受けなかった。いつも壮太郎さんは宇宙人と呼ばれるけど、それは言語能力の問題じゃなくて他人が拾い上げないような細かい感情を大切にしているから、現実というものへの認識に差が出て宇宙人と呼ばれるんだと思う。そんな壮太郎さんが言葉に詰まり、どう伝えるべきか悩むということは、言葉では表現できない領域の機微を伝えてくれようとしているということだと思う。結局その日は最終的に「言葉では伝えられないから」と言って、即興でダンスを踊って伝えようとしてくれた。

ワークショップに参加するまでは、伊藤壮太郎という人間がなぜ人前に出る仕事をしているのか不思議だった。でも、彼にとってダンスとはコミュニケーションで、喋る相手(=見てくれる人)がいないと成り立たないものなのかもしれない!!と考えてみるとちょっと合点がいく。

それを踏まえて今回の公演のことを考えてみると、大切な犬が亡くなった様子を公演として第三者に見えるように公開してくれたのは、伊藤壮太郎が自分が今いる現在地を人に知らせるためだったんじゃないだろうか。伊藤壮太郎はけっこう試作にふけってしまう人間だと思うんだけど、壮太郎さんの人間との関わりが増えれば変に悲しみすぎないための重しになる。そういう伊藤壮太郎が生きている場所に楔を打つような公演だったなあと思った。

 

壮太郎さんは人類全員必ずもっているような他人と分かち合えない自分だけの要素をきちんと直視して言語化しようとする。他人とのコミュニケーションを諦めていない。言葉が足りないと言って踊り始めるような気概があるのがすごい。壮太郎さんがダンスを踊っているのは、きっと言葉では言い表せないいろんなこと(多分、ご飯おいしかったーとかささいな事から、深い悲しみ、情緒に至るまで)あらゆることを体で表したいからなんじゃないだろうか。そう考えると舞踏をやっているのもなんかわかる。壮太郎さんのダンスは祈りとしての表現じゃなくて日々の延長なんだろうなあというのが新しい学びでした。

演劇ドラフトグランプリ

614日に行われた演劇ドラフトグランプリの感想ブログです。

ただ面白いイベントだっただけじゃなくて、今後の演劇業界におっきな影響を与えるのでは!と、浅学ながらに思いまして、何が面白かったのか、何が凄かったのかを自分なりに書いてみようと思います。

 

演劇ドラフトグランプリとは、以下のルールのもと、事前のドラフト番組で選ばれた演出家・役者たちが4組に分かれて演劇で戦うお祭りです。

<公演ルール>
・各劇団の演目は20分以内。
・脚本は各劇団オリジナルで作成。
・衣裳は1人1ポーズのみとし、衣裳チェンジはなし。
・大道具は使用不可。役者が自分で動かせる道具のみ使用可。

 

まず一つめに面白かったことは、普通に4つの作品が面白かったこと。そして4つの作品がどれも似ていなかったことです。中屋敷さんが演出を務める「IDcheckers」がトップバッターで青春×野球の起承転結がはっきりした話を上演していました。この時点で観客(私)は「なるほど!今日は起承転結がある色んなお話が見れる日なんだな!」と錯覚する。そこで西田さん演出の「打」がとんがりまくった演劇を作り観客を混沌におとしいれる。ここですでに高低差がすごいんですよ。わかりやすく商業的に成功しそうな綺麗にまとまった演劇じゃなくて、メタと物語を織り交ぜて観客が座ってる空間を変容させるような作品を見せつけてくる。ここで私は混乱するとともに、演劇ドラフトグランプリが想像よりも懐が深く、色んな表現が見れる場所であることを理解します。そして植木さん演出の「超mix」。起承転結の「起」「承」が限りなく短く、身体表現マシマシの話でした。演劇っていうか、ダンスも演技も全部織り交ぜた身体表現だ〜〜!ノリノリになる!明らかにこの辺で観客の反応ほぐれてきましたよね。MCさんの言うことにもリアクションしてくすくす笑ったりするようになりましたよね。場がほぐれたところでおよそ20分とは思えない密度の伊能忠敬の偉業を描いた大河で感動のフィナーレ。44様の表現が見れる、本当に懐の深いイベントだった。演劇の作品として純粋に面白い作品が集まったことが一番すごいことだったな〜と思います。

20分で演劇を成立させるのはとても難しいことだそうで、各チームで20分以内に収めるために何かしらの要素の省略がされていたと思います。何を省略したかで逆説的にそのチームが何を演劇の核と捉え何を大事にしていたのかがわかり、一層4者の差別化が進んでいたように思えました。私の勝手な想像ですが、1つの作品で色んな要素を詰め込まなくても4つの演劇でバランス取れてればイベントが成立するので、演劇ドラフトグランプリでは1作品ごとの冒険がしやすいのではないでしょうか。全部打くらい振り切ってたとしても、振り切り方の方向性がバラバラでさえあれば結果的にバランスが取れてめちゃめちゃ面白いイベントになりそう。20分で起承転結の「転」の部分だけやる演劇があってもよい。体を動かさないで朗読をしてもよい。セリフが無くてもよいかも。演目ごとに観客として使う脳みその種類が違うから、五感全部使って44様の演目を楽しむようなイベントにもなり得そうだし、喜怒哀楽全部の感情にさえせてもらえるイベントにもなりそう!何をやっても面白くなりそうだからいろんな実験ができる。しかもその実験が商業として成立しそうな面白いスキームだなと思いました。私はこのイベントが続いて、もっといろんな演劇を見てみたいし、票がバラバラに割れるところが見てみたい。このイベントの第二回を荒牧さんが、ネルケがどんな風に舵切っていくのか、今からとても楽しみです。

 

他に面白いなと思ったポイントは観客の投票先です。グッズの売れ方や自分の席の周りにいたオタクの様子を見るに、一番ファンの数が多そうだったのは超mixだったのではないかと思うのですが、優勝したのはズッ友でした。それが面白かった。4人の演出家たちがそれぞれ全く違う演出をしてきたことも、オタクが安易に自分の推しに投票せずにみんなそれぞれ考えて決めていたであろうことも!投票結果がどうあれ、オタクが真剣に演劇と向き合ったから生まれた出来事だったな〜と思います。

あと私、審査員はお茶を濁すようなコメントをしていくのではないかと思っていました。(すみません)いくら2.5が商業的な成功を収めていようと、2.5好きですと非オタに言うと「あ~~~こんなのが好きなんだね」と若干引き気味のリアクションをされることも多い(そういう時は理性的にプレゼンするように努めてる)。だから2.5出身の俳優のことは内輪しか評価してくれないんじゃないかという偏見を私は抱えていたのですが、審査員たちからは「私は演劇の素人ですが」という前置きがあった上で、自分の分野に置き換えたり、自分の経験と照らし合わせながら真摯にコメントをしてくれていたように感じました。審査員の人選はシアコンとアベマがお金に物を言わせたのでは…?と疑いたくなるような人選でしたが、審査員のみなさんがどの演目にも丁寧にコメントしてくれたことで、「豪華審査員陣!」という印象ではなく「芸術に関わるプロたち」という印象に変わったなあと思います。演者も審査員も観客も全員真摯だったことがドラフトをより良いイベントにしていたと思いました。

 

最後にもう一つ、演劇ドラフトグランプリが演劇界全体に影響を与えるのでは~と思ったポイントで締めくくらせてください。 

キラキラ非オタOLの先輩に、今日はどんなイベントに行くの?と聞かれた時、なぜ楽しみなのかとても説明しやすかった。いつもだったら「推しの死生観が垣間見えて」とか「好きな演出家が見たことない演出してて」とか、知らない人からしたら意味わからんレコメンポイントしか言えなかったのですが、今回は「ドラフトでチームに割り振られた俳優たちが日本武道館44様の演劇を披露し観客はそれに投票する」という、とっても伝わりやすい訴求ポイントが伝えられました。仮に演劇の内容がつまらなかったとしても、このスキームである程度の面白さは担保されてると思う。だから知らない人にも説明しやすい。そして、ちょっとだけ演劇に興味あるけど、いきなり観劇に行くのはハードル高いな~と思ってる人も参加しやすい。最低限の面白さが担保されているため。そういう特徴も演劇ドラフトグランプリのすごかった所だと思います。

演劇でお金を稼いでいく上での障害は、演劇業界全体の観客の絶対数の少なさだと言われていたのが通説で、アニメや漫画を原作にする2.5次元舞台が多界隈から人を連れてくることで観客数を増やすことに貢献したと認識しています。そんな土壌がある中でさらに演劇を開けたものにしていくのが、演劇ドラフトグランプリのようなイベント形式の上演方法なのではないかと思いました。数年後に2.5次元舞台がサブカルチャーではなくクールジャパンと呼ばれる時代が来るとしたら演劇ドラフトグランプリはその節目の一つとして数えられることになると思います。

 

ド平日の夕方早めの時間の開演でしたが頑張って行って良かった~~!!と思える、あらゆる意味でめちゃめちゃ面白いイベントでした。第二回開催も心待ちにしています!!!

アクステ感想ではない

本田礼生という人をかれこれ3年くらい推してるけど、どんな人格の人なのか実はあんまりよくわかってない。本田さんはいつも背後に隠している何かがあって、それを容易に見せてくれない。でもすごく優しいし素直だから、容易に見せてくれない何かを差し出す代わりにオタクのことをものすごく気遣ってくれたり、芝居でその何かの片鱗を見せてくれる。精神的に丸裸の状態で芝居をしてくれていると感じる。

本田さんのことよくわかってないけど、本田さんがする芝居の中で一番好きなものは死に関するものです。(本田さんのオタクけっこう全員そうだとおもうけど)コンボイATOMボレロしかり、BOYS DON’T CRYのダンスしかり、桜の森の満開の下しかり、アクダマドライブしかり。本田さんが表現する死はいつも強く生きた前提があってこその死で、悲しいだけの死じゃない。ATOMでの死は「わたしは、しぬのがたのしみ」という谷川俊太郎の詩の死。死ぬのが楽しみと言いつつ、自分より先に死んでいく人の死を悼み、自分も人生を全うした後に過ぎていった生を慈しみながら死んでいく。BOYS DON’T CRYはシャバで自由に過ごせる最後の日に本田礼生がラストダンスを踊る話だと解釈している(それも一つの死の形だと思う)。桜の森の満開の下は、ある種「男」のために生きた「女」が男をより一層孤独にさせるための見事な死だし、アクダマドライブの殺人鬼は自分がやりたいことを貫き通して死んでいく。噂によるとコンチュウジャーの死の表現もすごいらしい。(DVDの購入を決意しました)

私のばあちゃんの話をさせてほしい。本田さんに1ミリも関係ないけど酔っぱらってるから許してほしい。私のばあちゃんはALSという2万人に1人がかかる難病で死んだ。ALSは体中の筋肉が徐々に動かなくなっていく病気で、意識ははっきりしたまま歩けなくなり、言葉を発せなくなり、最後には肺の筋肉が衰えて呼吸困難で亡くなる。ばあちゃんは最期、動けなくなったことによる鬱を発症して、死にたくない、いや死にたいと言いながら死んでいった。本当にやるせない死だった。死は本当にいろんな形がある。私のばあちゃんより悲惨な死を遂げている人はいくらでもいると思うし、ウクライナやロシアで今死んでいっている人たち、戦争とは全く関係なく飢餓、差別、はたまた鬱、自殺で死んでいく人たち、いろんな形がある。死って本当に怖いですよね。どんなに誇り高く生きても、死の形を選ぶことはできない。自分らしく死ぬことができる人ってどれだけいるんでしょうね。でも本田さんが眼差す死は、生きることを肯定する死な気がして、本田さんの生命に対する優しさをひしひしと感じます。(だってそうじゃなかったら「しぬのがたのしみ」なんて詩を選ばないと思うんです)本田さんが演じる死はその人らしい。必ず何かを全うして死ぬ。明日死んでもいいって思えるくらいの生き方をしている本田礼生が心配な反面、めちゃくちゃ大好きでもあります。

本田礼生はすごく優しい。本来だったら本田さんについて語る時は手にグローブをはめてボクシングをする気分で本田さんをいじり倒したいところなのですが、酔っぱらってるから本田礼生を褒め倒していることを許してほしい。何の文章書いてるのかだんだんわからなくなってきたけど、これは本田礼生が好きだ!ということを声高に主張するための文章です。

結局私は本田さんの芝居を推しているのか本田さんの人格を推しているのかよくわからない。まあでも良い芝居をしたかったら良い人間になれという言葉もあるし…芝居は人生がにじみ出るものだという誰かの言葉を信じて、本田さんの人格も芝居もまるごと愛すということでここはひとついかがでしょうか!?

本田さんについていけば面白いものが見られる、もそうなんだけど、本田さんを見ていれば生きてることを肯定してもらえる、生きる上での糧になる、そんな気持ちで推しています。別に生きてて特別苦労してきたとか特別嫌なことに耐えてきたわけではないけど、普通に生きてたら日々しんどいと思うささいなことがある。本田礼生が死を大切に取り扱ってくれることで、死の前手にある「生きること」そのものも大切にしてくれているような気がして、私はとても救われています。

本田さん~~~~~!!!!大好きだ~~~~~~!!!生きて芝居をしててくれてありがとう!!!!!!!ここにもそこにも本田礼生に救われてるオタクがたくさんいるよ~~~!!!!

今日も元気で!!!