(柔)翔けゆくあの子 仰ぎ見て 紡ぎ。

1月18日に行われた伊藤壮太郎さんによる自主公演「(柔)翔けゆくあの子 仰ぎ見て 紡ぎ。」の感想エントリです。ギターの生演奏に合わせて壮太郎さんが即興で踊る公演でした。壮太郎何を表現していたのかを考えたくて文章を書いています。

どんな空間だったか

この公演の中では、いくつかの場面に分かれて即興のパフォーマンスが展開されていく。各場面ごとに音楽と照明が変わり、雰囲気をガラッと変えながら進行していく。最初の場面では、しんとした空気の中で壮太郎さんが「餅」「足(すそ)長い」「暑くね?」など、その時感じたことをぽんぽんとリズムのように発声しながら踊ったり、ゴジラのマネなどをしながら歩き回る。ちょっと笑いも起こる。でも、壮太郎さんが踊っているうちにだんだん声が大きくなってきて、動作が大きくなってきて、だんだん雰囲気が深刻になっていく。場面が変わるごとに苦悩を描いているような重苦しい雰囲気になったり、ふっと緊張が緩んで日常を描いているような雰囲気になったり、「おいで」と犬を呼ぶシーンになったり、激しく悲嘆にくれるシーン、また日常に戻っていくシーンと展開していく。昨年9月に壮太郎さんは実家の犬が危篤で帰省されていたのだけど、多分その時のことを公演にして見せてくれたんだと思う。壮太郎さんが生きてきた中で何があったのかを口ではなく体で喋っているような公演だった。体で喋りながら、その時何が起こっていたのか、壮太郎さんに何が見えているのかを共有してくれた。

なぜ犬が亡くなったというごく個人的なことを他人に対して表象してくれるのかよくわからない。私だったら個人的なことをパブリックに対して発信するには何かを隠したり、表現の壁をもっと多重に被せると思う。一つ一つのシーンで壮太郎さんが即興で踊る様子は、日々感じてることをストレートにそのまま表現してくれたようでとても戸惑った。それを表現してくれるのはありがたいけど、きっとその表象には痛みを伴うのではないだろうか。そうまでして見せてくれたことの意味が、弔いなのか、自分の感情の昇華なのか(これは弔いと同義である)、観客に対しての責任なのか、ただ喋りたかったのか。それを考えることが壮太郎さんが何のために踊っているのかを考える上で糸口になることだと思う。

 

伊藤壮太郎の身体表現について

去年の7月くらいから11月末まで壮太郎さんがワークショップをやっていた。壮太郎さんはワークショップをやっていた時から、「そんなに開示して頂いて大丈夫ですか!?」と問いたくなるほど自分のことを言葉で、ダンスで伝えてくれがちだった。ワークショップの中でいつも壮太郎さんがソロで踊って体で喋ってくれるコーナーがあるんだけど、今回の公演はワークショップの中のコーナーよりもずっと喋っている内容が伝わってきた。

そもそも、ワークショップの内容も「どうしたら体を使ってコミュニケーションを取れるか」の文法を教えてくれるようなワークショップが多かった。いつもワークショップの前半で、自分の気持ちのままに体を動かすためのコツを教えてくれる。(空間の中で居心地が良い場所を探してみると良いとか、体の一部を最大限使ってみると良いとか。)そして後半はいつもコミュニケーションの時間で、参加者同士で一対一になって体の動きでコミュニケーションを取り合ってみる。体の動きを会話に例えると、壮太郎さんの動きは流暢な文章みたいで、一個一個の動作が次の動作への伏線になっていたり、黙っている時間も楽しめたり、陽キャにも隠キャにも合わせられる本当の意味でコミュ力が高い人という感じがした。伊藤壮太郎は、体を使って長い長い文章を喋っている。

いつかのワークショップの時に壮太郎さんが言いたいことを考える時間が多い日があった。伝え方を探しながら「なぜダンスを踊ることが健康に良いのか」「言葉にできないことを伝える」みたいなことをぽろぽろと話していて、それがとても印象に残った。第1回のワークショップの時から壮太郎さんはいつも言葉によるコミュニケーションも大事にしてくれていて、特に言葉に不自由している印象は受けなかった。いつも壮太郎さんは宇宙人と呼ばれるけど、それは言語能力の問題じゃなくて他人が拾い上げないような細かい感情を大切にしているから、現実というものへの認識に差が出て宇宙人と呼ばれるんだと思う。そんな壮太郎さんが言葉に詰まり、どう伝えるべきか悩むということは、言葉では表現できない領域の機微を伝えてくれようとしているということだと思う。結局その日は最終的に「言葉では伝えられないから」と言って、即興でダンスを踊って伝えようとしてくれた。

ワークショップに参加するまでは、伊藤壮太郎という人間がなぜ人前に出る仕事をしているのか不思議だった。でも、彼にとってダンスとはコミュニケーションで、喋る相手(=見てくれる人)がいないと成り立たないものなのかもしれない!!と考えてみるとちょっと合点がいく。

それを踏まえて今回の公演のことを考えてみると、大切な犬が亡くなった様子を公演として第三者に見えるように公開してくれたのは、伊藤壮太郎が自分が今いる現在地を人に知らせるためだったんじゃないだろうか。伊藤壮太郎はけっこう試作にふけってしまう人間だと思うんだけど、壮太郎さんの人間との関わりが増えれば変に悲しみすぎないための重しになる。そういう伊藤壮太郎が生きている場所に楔を打つような公演だったなあと思った。

 

壮太郎さんは人類全員必ずもっているような他人と分かち合えない自分だけの要素をきちんと直視して言語化しようとする。他人とのコミュニケーションを諦めていない。言葉が足りないと言って踊り始めるような気概があるのがすごい。壮太郎さんがダンスを踊っているのは、きっと言葉では言い表せないいろんなこと(多分、ご飯おいしかったーとかささいな事から、深い悲しみ、情緒に至るまで)あらゆることを体で表したいからなんじゃないだろうか。そう考えると舞踏をやっているのもなんかわかる。壮太郎さんのダンスは祈りとしての表現じゃなくて日々の延長なんだろうなあというのが新しい学びでした。