二人芝居 追想曲 カノン 感想

カノン、情報量が膨大だった~~~というのがまず私の感想です。

まず舞台はBGMもセリフもない無音のマイムから始まって、見ている私たちもヨハンの指先に神経全集中。そして集中していたら音がどんどん重なって音楽が鳴り始めて、曲が盛り上がったところで一つ目のシーンに入っていく。

短い導入だけどこちら側はびっくりするんですよ。だって音無しのマイムでじ~~っくり芝居に浸らせてもらえることなんて今までそんなに無かったじゃないですか。そこでああ、この芝居は今までとはちょっと違うぞ、と理解する。細かい動きも見逃さないようにしよう。無音の時間こそ何か大切なことが語られるのかもしれない。そういう意識を持ってここから先の芝居を見ようと思わせられる導入です。

そして、本編に入っていく。舞台は人間とロボットとの戦争が続いている終末世界で、ロボットからの攻撃の対象となるエリアである「外」と人間が暮らしている地域である「中」の2項対立となった世界が描かれている。そしてその、戦争が続く地域で、音楽をキーワードにしながらその世界に生きる人の3つの物語が繋がっていく。

一つ目の場面は、レストランのシーン。ウェイターの男と客の男の2名の掛け合いなのだけど、話を追っていくうちにだんだんと世界が戦争中であること、戦争の終わらせ方が誰にもわからなくなってしまったこと、このレストランにはウェイターの男以外誰も働いておらず、過去にあった敵対勢力からの攻撃で、ウェイターの1名以外の従業員が全員亡くなっており、ウェイターは一人で店を守るために働き続けていることなどが明かされていく。客も恋人を爆撃で亡くしていて、その当時の記憶を無くしてしまったまま、恋人と訪れる約束をしていたレストランに訪れて、ウェイターと二人で会話を繰り広げながら少しずつ記憶を取り戻していく。

二つ目の舞台は、レストランと同じ町にあるヤクザの事務所。ヤクザの兄貴分が弟分に対して「集金して来い!」と怒鳴っているが、町はすでに敵対勢力からの攻撃地域に入っており、集金すべき人はもう全員防空壕に逃げてしまっている。兄貴分もそんなことはわかっているけど、兄貴分っぽく横柄に振る舞うことをやめない。そんな極限の中で、兄貴分と弟分がお互いにずっと隠していたことを少しずつ話す。

三つ目の舞台は、ロボット・アルトと音楽家・ヨハンの対話のシーン。音楽が持つ、人の心を動かす力に興味を持ったロボット勢力は、アルトをヨハンの元に送ってヨハンを保護しようとするが、ヨハンはいままで同胞を殺してきた敵対勢力であるアルトを拒絶する。歩み寄ろうとするアルトと、ロボットのことが信用できないヨハン。アルトの命をかけた歩み寄りを通じて、だんだんヨハンがアルトと感情を共有するようになる話だ。

全編を通じて、状況説明はほとんどなく、その状況に置かれた登場人物たちの日常的な会話で物語が展開されていく。会話の端々から状況を想像していくことになるから、普段見ている演劇よりもいっそう注意深く見ることができる。そして、注意深く見ることによって物語の細かい機微がより感じ取れるようになる。

この舞台の中にわかりやすく派手な演出はほとんどないし話がつらつらと進んでいくから、もしかしてこの脚本を見応えのあるものにするのはめちゃくちゃ難しいのではないだろうか!?見応えあるものにするために、本田さんと赤澤さんが細か~い機微を丁寧~~に芝居に落としてくれてるのがとても伝わる。

先日、「宇宙よりも遠い場所」というアニメを見て、万人が共通認識として思い浮かべる「悲しい出来事」ではなくて、ごくごく個人的な一見わかりくい状況で悲しみを表すと、人はもっと共感できてもっと悲しくなってしまうという心の動きがあるんだなあと学習したのだけど(宇宙よりも遠い場所のラストもそんな感じで、ありえんくらい泣いてしまった)、カノンも同じく、登場人物たちの個人的な状況を通じて感情が伝えられるからこそより感動した。

普通、顔を見合わせて「ロマンチックー!」って言っている絵面だけがぱっと出されても泣かないし、立場が上の人間が弟分にオラついてる姿を見て泣いたりしない。この状況に置かれた人間たちがどうにか自分たちで状況に適応するための努力をした結果、あえて普段通りに振る舞うことを選択しているということなんじゃないかと想像してしまって、普通のことを喋っているシーンなのにめちゃくちゃ感動してしまう。一個すごく印象に残っていることは言葉遣いで、登場人物たちは終末世界になっても言葉遣い(敬語)や立場による態度を崩そうとしない。それは彼らが極限状態に置かれてもなるべく変わらない日常を生きたいと思っているからなんじゃないかと想像してしまって、ヨハンとアルトが賢明に日常を保たせようとしているように見えてめちゃくちゃに泣ける………

 

そして、役を入れ替えるということについて。

もともと役を入れ替えようと提案されたのはプロデューサーの方で、それを聞いた本田さんがそれいいね!と乗り、赤澤さんは冷静に悩みながら結果的にダブルキャストを受け入れたという話だったと記憶している。パンフレットやインタビューを読んでも、役を入れ替えるダブルキャストというのは演者にとってとてつもない負荷がかかる仕事だということが至る所で書かれており、本当に大変だったんだろうな。と思う。けど、実際観客としてはめっっちゃくちゃ面白い演劇でした。

そもそも座組みからして、本田さんと赤澤さんがお互いに持てるものを全部出し切る演劇だと思う。観客もそれを味わいに行っていると思うけど、それに加えて登場人物が2人しかいないから1人1人の芝居に目が行きやすい。更に更に、役が公演ごとに入れ替わるから2人の芝居を比べることで2人の芝居の工夫がわかりやすいし、なんならセリフのイントネーション、体の動き、間、いろんな要素をそれぞれの芝居から比較して味わうことができる。その細かさの味わい方ってもはや歌舞伎とか落語とかの伝統芸能の領域なのではないだろうか。

キャリアが長い2人だから、別の舞台だと他の出演者のキャリーみたいな役割もすることもあると思うのだけど、この舞台に関しては何も気を使わずに、彼らができる最大限のことを惜しみなく出しているように見えた。

エーステの夏単で一成と三角が屋根の上で「昨日は星が見えなかったけど、今日は見えるかもしれない」「今日は描けなかったけど、明日は描けるかもしれない」「だから、大丈夫だよ」っていう会話をするシーン、回を追うごとに間が長くなっていって、芝居もどんどん変わっていって、あまりにも丁寧な芝居をされることにとても驚いていたのだけど、カノンはエーステのその掛け合いをより長く深く突き詰めたような丁寧な丁寧な舞台だった。

ふと気になったのだけど、もし今まで本田さんの芝居も赤澤さんの芝居も見たことがない人がこれを見たらどう思うのだろうか。

今回の芝居の中には、私たちが2人の人格を知ってるからこそ感じ取れるものが色々あるんじゃないかと思った。本田礼生と赤澤燈の今までの芝居を多少なりとも知ってるからこそ、今までと違うアプローチをしているとかどんなことを試みようとしているのかとかが多少なりともわかるじゃないですか。あ、今までに見たことないことやってるなとか。そうやって、彼らが考えていることの片鱗が少しでも観客に伝わることを全部考慮に入れた上で2人が他の場所(=自分たちを知らない人がいる可能性がある場所)ではやらない芝居をやっていた可能性もあるんじゃないか!?そこまでアクセルを踏んでいたんじゃないか!?と勝手に想像してしまい、もし初見の人がいたらすごくすごく感想が気になるなと思っています。

 

ただ、面白かった一方でこの演劇を作るにあたっての苦労もいろいろなところで取り上げられていた。

今回の演劇は2人は楽しんでやっていたみたいだけど、覚悟なく取り組んだらめちゃくちゃな苦行だったのではないだろうか。2人は楽しんでできる素質をお持ちの素晴らしい役者さんたちだけど、普通の話として人間は無理をすると壊れる。そんな苦労と楽しさが高い位置でバランスを保っている大変な状況の演劇に携わっていたのが松崎さんという演出家だったことも、観客目線で最高に良い環境だったな~と思います。

昔、本当に少しだけ演劇をかじっていたことがあり、その時の経験とか自分の周りで演劇をやっている友達の話を聞くに、役者に心理的肉体的ストレスをかけることがスタートラインだと思っている演劇関係者の方もいらっしゃるのではないかと想像している。正直言って私は演劇業界の倫理観のことをあまり信用していない。そんな中、松崎さんが「演出家が俳優を意図的に苦しめる現場がいいとは思わない」と明言してくれた上でこのダブルキャストという負荷を担ってくれているのが本当にオタク目線として信頼できる環境だなあと思っています。(何様だよって感じだけど

しかもしかも、ダブルキャストであることは演出的に面白かっただけじゃなくて、興行的にもすごく良い方に作用した仕掛けなんじゃないかと思いました。

まず、興行的にもダブルにした方が収入が上がる(だってほとんどのお客さんが最低2公演は行くということだもん)し、話題性もあってニュースになりやすいですよね。私は基本的に面白くお金を儲けてくれるならどんどんやってくれ!!と思うタイプのオタクなので、今回のダブルキャストをプロデューサーさんが提案されたということも含めて面白い座組みだなと思いました。それに、プロデューサーの方がどこまでの意図を持っていたかはわからないけど、結果的に観客が本田さんと赤澤さんの芝居に対して深く考察できるとっても素晴らしい仕掛けになったと思う。

 

そして、音楽について。

これは、製作陣のみなさまも繰り返し発信している通り、祈りの話である。

祈りとは、きっと芸術の力を信じるという祈りでもあるし、人は人に影響を与えることができるという祈りでもあるし、立場が違う人や対立している人でもわかり合うことができるという祈りでもある。音楽が人を少しだけ勇気づけて、人々の勇気が縁を繋いでいく話だ。音楽がアルトとヨハンを勇気づけ、最後には勇気の連鎖が作曲家自身に帰ってくる。

現実には音楽が直接的に戦争を止めることはない。でも、この話で描かれていた通り、人が歩み寄る時の最初の一歩になりうるのが芸術なのではないか。

2020年から今に至るまで、多分演劇やその他のエンタメ業界の苦しい時期は続いている。コロナの時期からなぜかエッセンシャルワーク以外の仕事を軽視する風潮が生まれ始めて、エンタメが槍玉に挙げられることも何度かあったのだけど、個人的に印象に残ったのは「芸術は生きるのに最低限必要なことではない」「芸術を自粛するべきでは」という意見や、「そもそも経済活動に芸術なんて本当に必要なのか」「自分は芸術に救われたことは一度もない」という意見だった(「一度もない」はさすがに少数派の意見だろうけど)。コロナがはじまってからの数年間はエンタメ、特に現地に行かないと体験できないエンタメにとっては経済的にも精神的にも苦しい期間だったと思う。

エンタメ業界はいろんな種類のダメージをたくさん受けた。そのうちの経済面では今まさに回復している途中だと思う、けど、精神的に、極限状態に陥った時に、エンタメは必要ないものだと言われてしまうのか?という問いは解決されていないままだと思う。

私たちみたいな演劇を常日頃から見に行く人にとって、辛い時こそエンタメが必要なのは当たり前すぎることだけど、結局エンタメの価値を信じられない人たちに関しては、特に根本的な解決がないままコロナ終焉とともにぬるっと状況が改善してしまったと思う。エンタメをやっている人とエンタメを見に行く人がかなりの不自由を強いられた経験からまだ解決策を探せていない。そんな2024年にこんな演劇が生まれてきたことはとても意義深いことだと思う。

そもそも2020年は全員すごく弱気になっていて、人と会うと人が死ぬかもしれない、という状況に対して当たり前だけど「生命に直接関わること以外は自粛すべき」という言葉のもと、多くの人たちが普段の生活を中断していた。あの時期に自粛しなきゃいけなかったのは本当に正しいことで当たり前なんだけど、必要以上に人と人の分断が起こっていたし、世界中の人たちがふさぎこんでいた時期だった。

2020年の当時私が感じていた気持ちは、生命が脅かされている時代に対する恐怖だったり、医療従事者に対する感謝だったり、なんもできない状況に対するもどかしさだったり。私もべつに医療とかインフラ関係の仕事をしているわけではないので外出自粛期間は仕事が本当になくて、労働することさえできなかった。

でも、そんな外出自粛期間が終わり、みんながこわごわ外に出始めた2020年の夏、久しぶりに外に出て真夏の新宿のあまりの暑さにクラクラしながらスペースゼロに向かって席に座り、オープニングのLOVE PHANTOMを見た時、久しぶりに手足に血が通ったような気持ちになった。みんなそうだと思うけど久しぶりに生きていることに感謝したし、人間らしい感情取り戻せた!と思ったんだよね。本当に今更言うまでもなく当たり前のことだけど、苦しい時こそ人間には楽しいことが必要だ。

なんだかこの作品で伝えられている「芸術の力を信じる」というメッセージは、あの狂った2020年に対するアンサーのように感じたし、もっというと未だに狂い続けている世界に対する祈りでもあると思う。

私はたまたま最近反戦をテーマにした作品を見ることが多かった。カノンが反戦をテーマにしたかったのかはわからないし、もしかしたら全然意図していないかもしれないけど、カノンを見ると強く戦争はだめだ、という気持ちになる。

それは、カノンの物語の中で、ロボットと人間の戦争についてあまり細かくは触れられていないからこそ解釈を広げて自分が生きている世界で実際に起こっている戦争にも当てはめてイメージすることができるからだし、戦争そのものじゃなくて戦争によって脅かされる日常の方を描いているからかもしれない。レストランで客と恋人が「すごくおいしい」と言うシーン、ヤクザの2人が乾杯するシーン、ヨハンとアルトが一緒にピアノを弾くシーン。話しているセリフもやっている動作も本当にありふれた普通のことなのに、そこに至るまでの描き方も芝居もあまりにも丁寧で、自分が暮らしている日常よりもリアルに、日常というものの大切さが身にしみてわかる。

 

あと、私は音楽が好きで、最近転職して音楽業界のはじっこのほ~~~~で働き始めたので、カノンの中で取り上げられているものが音楽であることがかなり嬉しかった。

音楽って基本的に一個も合理的な創作物じゃないと思うんですよ。なんで言葉の途中に「yeah」とか言っちゃうのか。よくわかんないけどそれで人間の感覚みたいな部分に働きかけて、人の気持ちを変えちゃったりする。

音楽も演劇もたった5分でマジで人生が変わることってあるよねと思うし、発された一言のセリフ、一個の音をいつまでも覚えていてそれが生きる時の道しるべになったりする。

すごく余談なのだけど、私は演劇を見て感動した時にこうやって文章を書くことがあるんだけど、音楽を聴いたりライブに行った時に感動しても文章を書くことはない。それは論理とは全然違う部分で音楽を味わってるからだし、自分が感じたことを文章にしても全く人と共有できないものになるんじゃないかと思うからだ。

伝わらないだろうな、と思いながら試しに書いてみるけど、私にとって音楽とは人間が作るものじゃなくて、人間が自然界から借りてくるものだとイメージしている。例えば人間が川の水を利用してダムを作るみたいに、源泉となる音楽は自然界に存在していて、人間ができることはその音楽の源みたいなでかい概念にアクセスして、源泉を組み上げて加工して世の中に広げているだけなんじゃないかと思うことがある。

ちょっとスピリチュアルが行き過ぎてる想像だけど、そう思うくらい音楽って不思議で第六感で感じる部分が多いものだと思う。さっきも書いた通り、音楽って(音楽理論的なものはあれど)理性でわかること全然ないのに、心が熱くなったり悲しくなったりする。理性で受け取れるものと感受性で受け取れるものが全然違う。なんで音が等間隔で鳴っているとリズムだと感じるのかとか、なんでこのコード進行だと気持ちいいのかとか、音の並びに正解や不正解があるのかとか、特定の音が組み合わさるとハーモニーになったり不協和音になったりするのかとか。なんで人間がそこに音楽を感じるのか、普通に考えて一個もわかんない。音楽理論として実証されてはいるけど、それは起こっている現象を対症療法的に解明しているだけなのではないか。

何が言いたかったかというと、音楽って超常的な力で一足飛びに気持ちを伝えることができるツールだと思うんですよ。論理が届かない場所に感情とか第六感とかで到達することができる。そういう力を持つ音楽が、カノンという祈りの物語のテーマとして選ばれたことにすごく共感できるし良いテーマだったなと思います。

 

最後に、めちゃくちゃ面白い演劇を見れて本当に楽しかったです!今回の芝居はエモーショナルな楽しみ方もできるし、本当に細かく練られた芝居を左脳的に楽しむこともできる。泣いてもいいし泣かなくてもいい。芝居を楽しんでもいいし、演出や脚本を楽しんでもいい。どこをとっても味わい深いし、それぞれの要素が強く結びついているから脚本を味わっている間に芝居や演出の良さにだんだん気づいていくような楽しみ方もできる。何度も見にいくような消費の仕方をしていたとしても、何度も見に行った分だけ色々な発見がある味わい深い舞台だと思いました。

またこの座組みでやってくれるといいな!!以上、感想エントリでした!